ただ、
私はそこにいる
ロックでもパンクでもHIPHOPでもない
ギャルでもキラキラでも港区でもない
なりたいけどなれない
なれないしなりたくもない
どちらかは分からないけど、
何者でもないまま存在して、
自分を支えて、ついでに誰かを支えているはず
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3月8日国際女性デー
2022年の世の中は女性にフォーカスしたメディアが発信された
10年前では考えられないほど、女性の人生について考える人が増えた
まあ、考えるフリをする人が増えたと言っても間違いはないと思う
メディア発信者の中には節分やバレンタインデーなんかと同等に見ている人間もいた
3月8日に取り上げられた女性たちは全て肩書きがある女性だった
ある女性はアーティスト
ある女性はクリエイター
ある女性は経営者
ある女性は母だった
私にはこう言った肩書きがない
ただただ、生まれて食ってうんこして眠って生き続けているだけなのだ
誰かに感謝されているわけでも、何かに貢献しているわけでもない私は
メディアに取り上げられている女性を見て、
国際女性デーは他人事のように感じた
社会貢献や子育てなどの活躍をしなければ、
女性、ひいては人間ではないのか?とすら考えた
私は20代中盤の事務員だ
誰にでも出来る仕事を
誰にでも起こしうるミスをしながら
誰にでも出来るスピードでこなしている
今日、私が死んでも誰も困らない仕事をしている
誰の配偶者でもないし、パートナーでもない
誰の親友でもない
誰の親でもない
国際女性デーの「女性」に私は含まれていますか?
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2022年2月10日
都心に大雪が降った
のっぴきならない理由があり、
仕方なく外出をしていた私は夜の11時に自宅最寄り駅に着く
駅から家までの帰路に4〜5軒のコンビニがあり、
白い煌々とした店内の明かりが
まだ誰の足跡も付いていない積雪を照らしていた
自炊をしない私はいつも通りコンビニに入り、
夕食を調達する
外で雪が降っていること以外は全てがいつも通りだった
ありがたかったと同時に
このコンビニの従業員にスポットが当たらない社会に不思議な感覚を抱いた
その不思議な気持ちは翌朝まで続く
早朝メディアに取り上げられるのはオフィス街や駅前ですっ転ぶサラリーマンで、
昨夜から営業を続け、商品を提供し続けているコンビニ従業員には誰も感謝していなかった
(私もしなかった)
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「キャリア形成」や「働き方改革」の影響が届くのは肩書きがある人間だけだ
同時に、そういった声が届くのも限られた人間だけだ
仕事を生きがいにしない、サボってもいい
ワークライフバランス、クォリティオブライフ
肩書きがある人々が言う
雪の日にコンビニが開店していることは
見過ごしているのに
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あなたはエッセンシャルワーカーですか?
2020年からのパンデミックによって、
生まれた新語「エッセンシャルワーカー」は
主に医療従事者を指しているようだった
(定義はもっと広いが、日本ではそういう雰囲気だ)
2020年初期には給付や補償制度により
自分はエッセンシャルワーカーではないのでは?と
強制的に自分を俯瞰、メタ認知をさせられた
結局のところ、エッセンシャルワーカーでない人はほとんどいないのでは?とも思い、
とりわけ私はそれに該当しないなとも思った
職業としては必要とされていたとしても「私」である必要はないからだ
看護師のようにとにかく人数が欲しい!というような頭数にも入らない
仕事だけではなく、
私は誰のエッセンシャルではない
私が死んでも誰も悲しまないし
私が生き延びても誰も喜ばない
必要とも不要ともされていない
ただ、そこに居る
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心臓が動いているな
頼んでもいないのに、心臓が動いていて
私を生かしている
頼んでもいないのに、生き続けることを肉体が要求する
誰にも必要とされない人生が、
こんなにも孤独で苦しいなんて知らなかったな
誰かに必要とされる努力が必要なのは分かる
でも努力が報われないことも知っている
私は頭が悪いから
この努力が正しいか間違っているか
それすら分からない
何もかも分からない
肩書きがない人間の声はどこにも届かない
誰にも届かない
それはこだまして、また自分に返ってくるだけだった
誰かの背景、それは水彩絵の具で描かれて、
最終的に水でぼかされる存在
問題提起をしたい訳ではない
理解してほしい訳でもない
この不思議な世界で
生き続ける意味を
ただそこにいるだけの私が
考えているだけなのだ